先輩とおれ
「山は自分の脚で登るからいいのさ」
坂崎先輩はそう言っていた。姉さんと先輩が付き合い始めた頃だろうか。先輩は山が好きだったこともあり、山岳写真に魅せられていった。
おれはそんな先輩のことを姉さんの傍で見てきた。母さんが亡くなったときに、何かを埋めようと先輩のように山に登り始めた。高尾山から始めて、今でも時々時間があれば浅間山の登山コースを歩きに行く。いつか先輩が写真で見せてくれた、あの山にいつか俺も登りたいと思った。日本で一番危険とも言われる、あの切り立った岩の山。君たちも夏休みだし、と博士が何日かまとまった休みをくれたもんだから、東京から浅間へ行くときに持ってきた登山道具を単車にまとめて、研究所から一時間弱の道を走っていく。麓に駐車場があるので、単車はそこに停めて、神社から歩き出す。ここの石段からして鬼門のような佇まいがある。登山者カードに個人情報を入れて、その先へと歩を進める。先輩が見た景色をおれも見たい。標高は決して高くないのだが、その難易度の高さと恐ろしさを前に先輩自ら話してくれた。写真を撮るのに普通の登山道具のほかにもカメラや三脚なんかも担いでいくのだから、その道は決して容易ではないことは想像に難くない。途中に道がないからだ。あるのは鎖と岩場のみで、こりゃあすげえ所に来ちまったなあと顧みても戻るに戻れない。プライド的なものと、物理的な意味合いでも。生身を岩と鎖に預けて歩を進めるのに、ゲッター乗りとは違った慎重さを求められる。標高が高い山なら何度か経験しているが、こんなに荒れている道は初めてだった。日本で一番危険と言われる意味が分かったぜ。
道と言えない道と崖を幾度も登り、薄い霧に覆われる山の向こうに、浅間山が見える。おれたちが守っている研究所。そして仲間がいる。岩の狭間に少しばかり安定しているところを見つけ、そこに腰を落とした。眼下に広がる崖と絶景のコントラストは、かつて俺に見せてくれた先輩の写真と同じ景色だった。おれは彼岸と此岸の狭間で、感嘆の息を吐いた。
「山は自分の脚で登るからいいってのは、こういうことかい、先輩」
隼人の奏でるハーモニカの音色は妙義山に響き渡り、そのまま彼方へ消えていった。
【了】
2025/06/22 UP