スターダム(黒い稲妻・OVERTURE Take2)
中里毅はとかく強い男であった。小学校で野球を始め、中学校に上がると朝五時に起き、妙義山麓に面する自宅から妙義神社の石段を朝から三往復して飯を食い、そのまま学校まで行くような屈強な男であった。センターで、フライを取ってそのままキャッチャーミットにぶちこみ、相手に点を取らせなかった不敗神話がある。強肩の中里と言われたほどで、私学からもちらほらスカウトが来るような男だった。地元が好きで、小学校のころから続けていた上毛かるたの県大ベスト八まで勝ち進んだのは十四歳の冬だった。中里は名前を書けば受かるような私学のスカウトを蹴り、特待試験で二、三野球の強そうな私学を滑り止めとして受けたが、最終的に選んだのは公立の工業学校であった。品行方正な中里は当然のように前期選抜を勝ち抜いた。自転車で一時間半かけて国道十八号を同じ中学で同じ方面の学校だった高田と毎日のようにドラッグレースをし、帰宅するとやはり妙義神社で三往復をこなしてから飯を食うような生活だった。中里の入った高校も野球がそこそこ強かったが、高校を出たら野球を続けようとは思わなかった。強肩であったし、レギュラーでもあったのだが、やはりドラフト会議はブラウン管の向こう側にあり、自分には無関係な話題であったことに年齢を重ねるごとにうすうす気付いていた。青い春を抜けたらすぐにでも就職したかった。進学できない家庭環境とは程遠く、嘗て栄えた安中・後閑氏の腹心であった中里家の本家筋で、田畑をいくつか持っている。衣食住には困らなかった。弟は遊びたいという理由で高崎の大学に進学し、駅から遠く地場の安い土地で兄のお下がりの黒いシルビアとともに下宿をしている。
現在の妙義ナイトキッズの中里毅を育てたのは上州妙義の土地柄と言ってもよかった。鶴舞う形の群馬県の羽根のあたりともいえる甘楽郡妙義町。ガキは自転車、大人たちは一人一台自動車を保有することが当たり前であるような土地。ドラッグレースをしているのは自転車だけではなかったからだ。
「ぐんま」という名前が「クルマ」から来ているという説もあるという。高崎線以外の鉄道やバスは衰退し、戦前から鶴の首あたりに存在した中島飛行場は富士重工となり、太田市のド真ん中に生産工場が位置しているのもあるせいか、自然とモータビリティ盛んな土地となっていた。埼玉になるが、ホンダの工場も西毛近くにある。ちいさな町に、お膝元である富士スバルをはじめスズキ、ホンダ、日産、トヨタカローラ群馬、群馬トヨペットのディーラーが軒を連ねるほどだ。新車を売るなら群馬とも言われたくらいで、前橋から高碕へと続く国道五十号沿いにはフォード、フィアット、ジャガー、メルセデスなど外車ディーラーも豊富で選び放題だ。それだけに走り屋も多く存在した。中里は早く自立して、自分だけの車が欲しかったのだ。
そこに「妙義ナイトキッズ」というチームがあるのを知ったのは、中学一年の頃だった。妙義にも多数チームがあったが、先代のアタマが環状だか湾岸だかまでタイマンを張りに行っただの、警察と殴り合いをしていただの、枚挙がないほど悪い意味で西毛中に名が知れているようなチームだった。当時の劣悪メンバーの中でもまだ走りを極めたがる、ナイトキッズでもまだまともな部類であった稲田という男が、日が昇る寸前の空のような淡いホワイト・パール・メタリックのC12シャコタンローレルで夜通しドリフトをしていたところを、日が昇る前に起きて石段を駆けていた中里は見ていた。駐車場で一息ついてると赤く一直線に弧を描くテールライト、ドギツイエキゾーストノートを奏でるローレルが現れる。朝日に照らされてきらきらと輝くホワイト・パールのボディと、リアのスモークガラスにカッティングされた白の「NightKids」のステッカーがやたらと眩く見えた。
「かっこいいですね」
地に足が付く、という言葉がふさわしいくらいの地上高を誇るローレルに、素直な感想を述べた。フルスモーク越しの車内はどうなっているのかわからない。見たら失礼かなと中里が少しばかり恥じらいの表情が混ぜながらオーナーとローレルを見る。
「坊主、わかんのか」
「えっ!?」
ローレルのオーナーは強面を柔らかくして見せたが、どう見てもヤカラのような格好をしているので柔らかさに欠けた。煙草の匂いを纏わせ中里に近づいてくる。
「詳しいことまではちょっと……」
まあガキだし、そうだわな、と稲田は中学の体操着姿の中里を見ると、スモーク張りの運転席のドアとボンネットを開け、鼓動を唸らせているエンジンを見せた。レカロシートに四点式シートベルト。それ以外の内装は至ってシンプルで、純正を保っていた。ドギツイエキゾーストとは程遠い、ラグジュアリーささえ感じる内装であった。
「ドンガラにしちまえとかいうやつもいるけどよ、やっぱナカは純正がいいよ」
中里はあけられたボンネットを覗き、強化タービンのはまった鉄の心臓が唸らせる音と、その車に魅せられていた。
「横、乗ってみるか?」
男の言葉に中里は二つ返事で返した。
咆哮を上げるローレルは一気に中之嶽までぶっちぎった。中里は稲田の目に見えるほどの興奮を味わった。
「……すごいですね」
「妙義の走り屋として無礼られたくねえからな。必死に裏妙義で練習してる」
裏妙義とはその名の通り下仁田側から妙義町に抜ける道のことで、先程稲田が上ってきた道のその先の下り道を言う。表妙義よりも勾配がキツいことで知られる。
「お前、名前は?」
「妙中の中里毅です」
「妙義ナイトキッズの稲田ジン。俺もこの辺地元でよ、まあ一応センパイになンのかな。また来いな。ガキは学校行く時間じゃねえンか? 送ってくぜ」
「ありがとうございます!」
マフラーのないローレルは爆音を撒き散らして中里邸に向かった。母親になんだったんと聞かれたが、トラクターだと誤魔化してどうにか朝飯をかっ喰らった。
初めてだった。クルマであんな走り方ができること、改造次第で速くなること、稲田とはよく週末の明け方や日没後によく会い、その中でいろいろ教えてもらった。一緒にいるメンバーは日によってまちまちで、ナンバーを取っ払い、環状仕様のマジキチチューンを施したワンダーシビックのやつ、オートマのブルーバードにインフィニティのエンブレムをくっつけただけの馬鹿、真っ青なボディにこれからラリーでもするのかと思わせるステッカーを多数貼り、当時のCVTの劣悪さから五速の変速機に載せ替えられたヴィヴィオ。無理矢理ボアアップしてB16Aを積み、見た目は五五〇㏄サイズだが排気量がテンロクになるため白ナンバーになってしまったトゥデイなど、中里はいろんな大人に揉まれて育っていった。中里もときたま友人を連れていったこともあった。その友人たちも、のちに同じ志を持つようになるのはまた別の話である。
***
中里毅十八歳、野球を引退したことに未練はなかった。人脈はこのころになると校内外に常識人から変人まで増えていった。変人には適応したというべきか。学内で品行方正だった中里は、面前一発自摸で決めたような求人票をどうなんと友人に見せたら、「休み、土日祝って書いてあるからって休みが出るとは限らねえって兄貴が言ってた、時代は完全週休二日制、それ以外なら年休百二十日以上にしろ」「でも三交代はやめろ、連続夜勤で死んだ知り合いがいる」だの俺の人生なのにと思いつつも頼もしい友人たちの助言により、わりと人気のあった亜鉛工場をやめ、別の安中市内にあった安定して賃金の払いもよく、福利厚生までカバーされた日勤の工場にチェンジし、クラスで一番初めに就活を和了った。
就活が終われば次は免許だ。中里の学校は堅いため就活が終わらないと免許を取りに行かせてくれなかった。就活が終わった中里はその日のうちにその足で地元の教習所の申し込みを済ませた。もちろん親はそれを知っているし、教習所の金も持つと言ってくれた。初めてのミッションはたくさんの教習生をシバキ上げたクラウンコンフォートだった。どこから生えてるんだと言いたくなる四速マニュアルのコラムシフトとクラッチが中里を苦戦させた。仮免までに二度実地で落ちた。
仮免許まで行くと、ナイトキッズのメンバーから借りたかろうじてノーマルを保っていたアルトや自宅の軽トラに「仮免許練習中」と貼り付けて練習をさせてくれた。軽のフロアシフトは文字通り軽くて入れやすかった。そして走りにもすぐ順応できる。仮免の自主練が楽しくて仕方がなかった。稲田は二十も半ばを過ぎ、ナイトキッズのアタマになった。走りに未練があった。いつか俺を越えていける。そう思わせるほど仮免の中里は筋が良かった。
自宅のサンバーで練習した時、殴り合いの結果リーダーとなった稲田に横に乗ってもらい、峠の攻め方を教わった。富士重工の開発者の変態ぶりを思わせる独立懸架のAWD・EN07四気筒DOHC。通称クローバー4。たった五五〇㏄ながらも中里の走りに応えてくれる農道のポルシェをシバき倒し、表妙義でのクラッチの入れ方とギアの変速を覚えた。しかし教習車のコラムシフトの性か、シフトの入れ方と走りが荒いと教官に何度もブレーキを踏まれた。車校で実技の卒検を二回受けて、ようやく前橋まで本試験を受けに行った。学科だけなら上等と中里は意気込んでいたが、朝から電車で向かい、試験を受けたが、結果発表からの免許証発行がとてつもなく遅かった。暇すぎるため、こっそりとメンバーから教えてもらった煙草に火をつけて時間を潰した。
14mgのタールに少しばかりぐらつきそうになったが、何とか耐えた。ようやく出来上がった免許証を見た時はとても嬉しくて、泣きそうだった。夕飯は赤飯だった。
中里は晴れてナイトキッズのメンバーとなった。クルマは自前のサンバーでもいいだろとも思ったが、メインは親父が農協に野菜を持っていくための営農サンバーだ。実際富士重のオタクをこじらせてレオーネから紆余曲折あり、サンバーにステッカーを貼るメンバーもいたが、自分の家のサンバーに走り屋のステッカーを貼るのは憚られた。就職で通勤するためにどのみち車が入用であった。中古車誌で何にしようかと考えながらも、そこから中里がシルビアと出会うまでに時間はかからなかった。峠の麓に稲田の知り合いの車屋がいた。何がいいかと訊かれると中里は黒い13シルビアがいいと言った。のちに知ったが、その車屋は分家の知り合い筋だった。世間の狭さなどそんなものである。車屋は豪快に笑い、あんちゃん、四月までに黒のシルビアを探してやるよと言ってくれた。中里はその二週間後に念願の黒いシルビア(前期型K’s一八〇〇㏄・歴あり)を五十万で手にすることとなる。冬も深くなる頃であった。碓氷峠には雪が舞い始めていた。妙義は標高が低く、雪もそこまで降らないため、長野や碓氷からもドリフトに来るヤツが後を絶たなかった。
***
シルビアを通勤車にして二年経った頃、中里は現場作業着の似合う男になった。シルビアの金も完済し、自分の走りとタール14mgの快楽がどんなものかわかり始めた頃だった。いつもの峠、いつもの駐車場で仲間とわいわいヤニを吸いながらバカみたいな話をする。いつもの光景だった。
「本社への転勤が決まった、俺も走りは卒業だ。次期リーダーを決めたい」
いつもどおりを切り崩したのは殴り合いの果てアタマを取った稲田であった。彼はもう三十に差し掛かっていた。走りにカタをつけたかったのだ。カタギの仕事だったのかよ、など、その顔で!? などとメンバーに言われながらもうるせえ! と遮りつつ淡々と語った。稲田も年々峠に来る回数が減っていたが、仕事が軌道に乗っていたそうだ。中里がいっとき決めかねていた要塞の如き工場の営業職だと言った。ナイトキッズは免許さえ持ってれば入れる民度の低いチームなどともいわれるくらいであった。各々の私情と車は二の次で、中里は高卒工員で同期の中で一番巧くFR、シルビアをぶん回すガキ、吉竹は中卒でセリを覚えるために深夜二時から築地へ向かい、定休日の前日に吉竹寿司と書かれたサンバーバンで峠に来るガキ、高田は不況に差し掛かったこの世相で高卒は不利だと感じて土下座して、北埼の大学に行き、足が欲しいと更に土下座してグレーツートンのシルビアを買ったガキ。同期のガキ一人とってもあんまり詳しいことまでは知らない人間も多かった。メンバーかと思えばOBだったり、名前だけは知ってるというやつもちらほらいた。
走り屋というものは本来二十代前半で引退するやつが多かったが、稲田はそこに十二年いた。それだけ走りに未練があったともいえた。対等に渡り合える奴が欲しかったのかもしれない。
「俺のわがままで済まないが、次期リーダーは走りで決めたい。後追いで裏妙義で俺を追い越せたヤツがリーダーだ」
「前みてぇに殴り合いでいいじゃねえか」「とりあえず日本語がわかるやつな」「高卒以上」「年休百日以上」「手取り十八万から」「駅近、風呂便所別」「女を食った回数が一番多いヤツ」「いっそあみだでよくね」などと民度の低さが滲み出る会話に稲田はげんなりしながらも、中里なら乗ってくれると信じて、柄シャツの胸ポケットから赤マルを取り出し一本吸った。数年前に中里にセッタを教えたのもこの男だった。
「やらせて下さい。俺、稲田さんに会わなかったらここでシルビア買うことも、ドリフトすることもなかったんで」
「じゃあこれ吸ったらやンべえ。本気で来いや」
「ありがとうございます」
中里は差し出された赤マルを一本貰って気を落ち着かせていた。稲田は嬉しかった。ほぼノーマルでリミッターカットした程度のシルビアだったが、中里は本気の目で稲田を見る。シャコタンのローレルは、初めて会った時よりも少しだけ小さく感じた。バトルの予定はあっという間に決まった。
「カウント行くぞ! 5・4・3・2・1・GO!!!!」
即座にローからセカンドに入れるが、出だしはローレルの方が先だった。あっという間に先行されていた。赤い地平を映すローレルのテールに必死にしがみつく。爆音を奏でるローレルのエキゾーストが徐々に遠ざかり、中里を軽く抜き放す。かと思うと音が近くなる。キツい勾配と狭い道路で、偶然にもパラレルドリフトをかますも、すんでのところで離されてしまう。離したい、あの人を越えたい――!!
残り三カーブのところで、中里は稲田よりも先にアクセルを踏み、ラインを取りに行った。俺も妙義の人間だ。何がどこにあるのかわかっている。先に、あの人よりも先を――!!!!!!
ブレーキを踏み、一気にセカンドまで落とすと、大きくシルビアの車体が横に振れる。腹だかケツを擦った気がするが、そんなことはどうでもよかった。バックミラーに映るローレルのフロントライトが近づく。快楽とか興奮とか、勝算(と言えるか微妙だが)が入り混じり、中里は軽く混乱しかけた。気が付いたらゴールである妙義町方面に向かう丁字路だった。後から僅かに遅れてローレルが端に横付けする。
「見事だったぜ、リーダー」
稲田は中里の方に向かって声をかけてやった。稲田がリーダーとなったのは、中里が高校生のころだった。腕っぷしも強いが、免許を持つ前から接してくれた相手を越えたことに、自然と涙があふれていた。思い出したようにシルビアを見回すと、バンパーを軽く擦っていた。幸い軽傷だった。
「す……すみません……」
「何言ってンだよ、お前のドリフトさばき、あんな狭ェところでよくやれたな。ド派手だったぜ。俺の負けだよ」
「お前が今から妙義ナイトキッズの三代目だよ。毅」
「い……稲田さん……」
「別に死にゃあしねえし、時々戻ってくるからよ、後は頼むぜ」
稲田はそう言うと爆音のローレルに戻って下仁田方面へと下って行った。ローレルの影が消えるまで、中里は頭を垂れたままそれを見送った。
***
いつもの駐車場。時期は秋に差し掛かったころだろうか。紅葉に映える妙義山、たまには昼の景色も悪くない。雄々しい山々に育てられたガキどもが集う。大学生は夏休みで羨ましいなあなどとふざけ合いながら三者三葉煙草も違う。
「暇だな、ともあれ毅クンぶっ生き返ってよかったよかった」
ツートンシルビアの高田はキャメルを吸いながら中里が正気であることを確認した。
「なんとかな。もう有給残ねえな……働かねえと……」
同じく黒のシルビアの中里は短くなったセッタを地面に落っことして火を消し、新しい煙草に手を付けた。
「そういや吉竹レガシィ買ったんだろ? やっぱドアんところに吉竹寿司って入れるンか?」
「絶っっっっ対入れねえ! 俺だってやっとの思いで買ったんだぞ! ダセぇ真似するかよバカ!!」
つい最近レガシィを買った小さな寿司屋の小倅吉竹はマイセンの火を高田に向けつつ叫んだ。
「てか毅、GT-R買ったってマジかよ? お前こそアタマ大丈夫か?」
中里はつい数週間前に、相模の白いGT-Rにぶちのめされた。ショックでメンタルまでやられてまるっと一週間有給を使い、上司にたっぷり絞られ、いろんな意味で燃えカス同然になっていた。
「ヨンダブならうちのサンバーで慣らしたから平気だろ」
「そういう問題じゃねーって! シルビアいくらで売れたん?」
「シルビア売りたくなかったから弟にやった。知ってる身内に乗ってもらえるのがシルビアも幸せだろうなって思ってよ……」
「マジか……。そこそこ値段つきそうだったのにな。アレだンべ、麓の車屋に二五〇万で成約済って書いてあったやつだろ、ナンバーついてたぜ。26-037って」
「そうそうそれな、って、なんで俺のRのナンバーお前が知ってんだよ!? 来週納車なんだぞ!! そん時までどんなナンバーかなって待ってたのによ!」
同じ中学だった連中は気が楽でいい。クソだと思うこともあるが、やっぱり誰かといた方が気は晴れる。
「どっかの馬鹿がRを買うって聞いたけど、マジか?」
両サイドに二本出しマフラーが付いた純正高で、透明なガラスのローレルが同中三人組の目の前に止まった。
「そーそー毅くん一か月くらい前に相模の32にぶちのめされてGT-R買うってうわごと言ってるんですよ」
「いやあー仕事一週間行けなくって……朝から起きられなかった、そんくらいショックで、そしたらいつの間にか寝巻のままハンコ持って車屋にいたんですよ……って稲田さん!? お久しぶりです!」
「いやあ二週間くらい前にも来たんだけど、そんときお前いなかったのそういうことか、ずいぶんとひどくやられたみてえだな」
久しぶりの再会に中里は少しばかり困惑していた。妙義のアタマを張り、西毛だけでなく、中毛あたりまで「妙義の中里」と言えば、初めてのガソスタでも箱ティッシュを貰ったり、内緒で割り引きしてもらえるくらいにはその名は広まっていたのだ。
品行方正な男は、未だに民度の低いナイトキッズを走りのチームにしたいと思っているのだが、それが行き過ぎて暴走することも多々あった。でも以前よりかは平和なチームにはなった。
「いやあ、シルビアがいやになったわけじゃないんですけど、やっぱ32の敵は32かなみたいなとこあるじゃないですか」
稲田はねえよ、と一蹴した。グループAならまだしもここは峠だ。ヨンダブとかFRとかの駆動輪の問題よりもてめえ自身、乗り手の技量じゃねえのかと諭した。
「お前、32と心中するつもりか」
「当然です」
冗談で言ってみたものの中里は真剣そのもので返してきた。この男の輝くところを久々に見られ、嬉しくもなった。
「毅」
「はい」
「32とサンバーは違う、無礼てかかると恐ろしいことになる。そこを弁えろ」
「……ありがとうございます!!」
中里は深く礼をし、稲田に告げた。妙義の中里を育ててくれた。自分の大先輩に、心からの感謝をしたかった。礼はこれだと中里は思った。
「稲田さん」
「32が来たら、裏で勝負してください」
「いいぜ。俺のローレルもだいぶ弄ったからな。『妙義の中里』さん」
「また連絡します。久しぶりに会えて嬉しかったです」
中里は心の空虚が埋まっていくのを感じていた。
***
「四輪か……ダッセェなあ。やっぱ二輪こそ最高ってなモンだ。ったく、3ない運動とか馬鹿馬鹿しくてやってられっかってンだ、クソ」
駐車場で車を並べている連中を遠巻きに見、フルフェイスのメットを外し、ポケットから出したラッキー・ストライクに火をつけた。11㎎のタールが血管を収縮させる。これうまいこと回避しねえとまずいよな、とか考えを巡らせながら、小洒落たブレザー姿でCB250RRに跨る男子高校生がひとり。二輪に乗りたいがために長野まで越県して受験に挑み、二輪の免許を意地でも取らせたくない群馬県の負の産物、二輪の3ない運動を合法的に回避した全日制の男子生徒は煙草を吐き捨て、メットを再び被り「あほくさ」と一言放って表妙義を上って行った。
憧れは次の憧れを生む。中里毅がその高校生の憧れになる日は、もう少しだけ遠い未来の話となる。
【了】
2021/3/11 UP