最終防衛線

ちょっとした日常の切り抜き
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弔辞

 遺族を代表いたしまして、ご挨拶申し上げます。故人の配偶者・そして喪主の庄司慎吾でございます。

 この度はお忙しい中、故人・中里毅の会葬にお集まり頂き、誠にありがとうございます。少しばかり長くなりますが、私と故人の思い出話に耳を傾けて頂けたらと思います。
 毅は旧妙義町に生まれ、育ち、そしてこの妙義山で命を散らしました。故人にとってはもっとその命を燃やしたく思ったでしょうが、この地と共に散るのであれば彼も幸せだと思っております。
私と毅が出会ったのは、まだ妙義町と松井田町が合併でその名前が残っていて、私は二輪で長野の高校へ通っておりました。碓氷峠を越えて毎日学校へ通うのも飽きた頃、妙義山へふと走りに行った時にいたのが黒のシルビアに乗った毅でした。当人は知らないと言っていましたが、野暮ったい作業着で「ガキが二輪でイキるな、裏妙義だったら死んでたぞ」と注意してきたのは、まぎれもなく工場で働いていた毅でした。それにうんざりし、私は碓氷へ戻り、大型二輪と乗用の免許を取るまで碓氷を走っておりました。
 それから数年、私はやんちゃの盛りで碓氷に飽きて久々に妙義へと乗用で繰り出しました。ステアをガムテープに固定してFRの車をぶつけて愉しむというふざけた遊びに興じておりました。そこに注意してきたのがあの時と同じ作業着を着ていた「妙義ナイトキッズ」の中里毅でした。
 時効でしょうから白状しますが、かつて私と毅は「妙義ナイトキッズ」というチームで、妙義山で下りを競い合う仲でした。毅は表妙義よりも裏妙義の道の方がシビアで、「裏妙義を制すものが妙義を制す」とよく言っておりました。毅のGT-Rが裏妙義でいとも簡単に下りを爆走する様を後ろで見ては、歯痒く思ったものです。裏妙義はそれほどまでにシビアなコースです。実際、私は走りを諦めるまで裏妙義で毅に敵うことはありませんでした。

 故人の配偶者という肩書もこそばゆいですが、妙義町も私の故郷の松井田町もなくなり、(旧)安中市に居を構えていた我々が行政の後押しもあり、配偶者という肩書を以て、こうして表に出られる時代になりました。俺は毅が好きだった。いつからだったかわからねェ。敵いそうで敵わなくて、完璧に見えているようで抜けていて、でも走りの実力は高くて、分からないようで分かっている、そんな毅に俺は欲情という形でぶつかったこともありました。ガキの使いに付き合っているだけだと思ったこともありましたが、毅もまた本気だったと酔った勢いで語ってくれたことを、今でも昨日のことのように思い出します。まだ合併する前に、俺は毅と一緒に住もうと言いました。毅はいいぜ、と二つ返事で返してくれた時には、不甲斐なく泣きそうになりました。

 不謹慎と言われるかもしれませんが、俺は毅が毅であるうちに死ねて良かったと思っています。ボケて俺のことを忘れちまう毅なんざ見たくなかった。だからこれで良かったんだ。そして親戚どころか、かつてのメンバーたちもこんなに来てくれたぜ、毅。お前の血と汗を注ぎ込んだRはよォ、中之嶽で燃やして送ってやンよ。地獄のヤマでまた逢おうぜ。もう少しだけ余生を楽しんだら、俺もそっちに行くからよ。

 「バカ毅がよォ、俺より先に逝くンじゃねえよ!! クソ野郎!!!!!!」

【了】

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