名
全開でヒルクライムが出来、高揚した気分で中之嶽の駐車場に入っていったが、すぐに赤いEG-6を見かけた途端に中里はげんなりした。それでも同じチームメンバーではあるので、無碍に扱うわけにもいかず、生来持ち合わせていた責任感と、この男と接しなければいけないという覚悟を己が内に集めながら便所側に32を停める。
息を吸って、一旦止めて、吐く。「ナイトキッズの中里毅」としての覚悟が出来たから、32のドアを開け、既に閉店しているみやげ店の前で店を広げる連中の前へと君臨する。毅サンだ、さっきの走り、見てましたよ! みやげ店に向かう途中で合流してくるメンバーにそう言われると嬉しさゆえ、純粋に気を良くして、つい顔も緩んでしまう。だが、みやげ店のベンチを玉座とし、薄暗い自販機の照明にうっすら照らされる顔が、不躾に歪む。
「間抜け面してンじゃねえぞ、中里ォ」
「るせぇ、テメェには関係ねぇだろ、慎吾」
「その面ムカつくンだよな。とっとと失せろや」
「悪ぃけど面は変えられンねェな。調子乗ってンじゃねえぞ、ガキが」
「「あぁ!?」」
ガキは対面する男に煙を吹きかけ、更に暴言を吐き出していく。その煙は中里の顔面にかかるほど至近距離というわけではなかったが、唾が飛び、中里の顔に飛んだ。つい最近チームに入ってきた、碓氷をホームにしていたという松井田のクソガキ。その不遜な面を見るだけで中里はあまり関わりたくないが、自身の立場の責任から関わらざるを得ないがために一瞬硬直してしまうのだ。
その男には、チームに来た時から色々と噂がついていた。やれ碓氷最速をモノにしたから妙義最速を奪いに来ただとか、碓氷でギャラリーの女を食いまくった挙句、他のモテない連中に恨まれて出禁になっただとか、碓氷の女走り屋に泣かされて出ていっただとか、本人に聞いてもすべて「さあな」と流して否定も肯定もしないので、その真相は妙義の(あるいは碓氷の)谷の中であった。ともあれ、ダウンヒルにおいては妙義で中里と張り合うくらいの技量を持っているので、これでもう少し自分に従順で大人しければ……と中里は常日頃から思っているが、何をやらせてもとてつもないクソガキで、チーム内外のFR車を板金送りにしたり、ガムテープデスマッチなるものを仕掛けてみたりと迷惑行為ばかりをするのだ。とにかく、内外に対して中里も頭を下げに行く回数がとてつもなく多くなり、目下頭痛の種とも言えたのであった。
対して松井田のクソガキ――庄司慎吾は、妙義のドタマを張っている中里に迫るほどに下りにおいてのテクはある。だが中里毅が嫌いであった。32のマシンスペックを掲げて妙義の上り・下りで最速を振りかざすどうしようもないバカ。童貞だとも聞いた。前に富士重の期間工をしていた筋金入りのスバリストのメンバーが南一番街の風俗嬢とテクについての評論をしていたところを中里と一緒に聞いていたが、中里は今にものぼせ上りそうな顔であたふたしていた。もうアホかと。二十代後半にもなって中学生のメスガキでもありえねえリアクションをしていたのだ。そんな男と妙義の下りを競い合っていることに、ばかばかしさを感じるし、正直何でこのチームに入ってしまったのかと今でも思う。だが、初めて妙義に来た時に、後続から迫られた黒い32のヘッドランプに、碓氷で感じることのなかったぞくぞくとした興奮を植え付けられたのは事実で、それを実際にしてみせたのが件の中里毅であったのだ。どうしようもないバカだが、どうしようもなく速かったのだ。そして中里と同じくらいイキったクソFRも嫌いだった。谷に落ちてみんな死ねばいいと思う。とにかくムカつく奴らは死んでおけ。いや、死ななくていいから俺の前から失せろ。
ともあれ、しょぼい玉座に腰を下ろしたままの慎吾と仁王立ちの中里は罵詈雑言の応酬を繰り広げている。死ねクソ、テメェが死ね。松井田の限界集落のガキが知った口を、妙義も大して変わンねェよボケ、限界集落なのは同じだろ。見てからモノ言え世間知らずが、世間知らずはどっちだよ、おい中里――!!
中里は自分が鎧として身に付けていた責任も何もかもを慎吾の罵倒で打ち砕かれ、生身の精神を曝け出しながらも、その言葉の刃を怒りという盾でどうにか防いでいた。慎吾はいつ終わるかわからない罵り合いの中、冷めた目で中里を見ていた。腹の底に怒りは溜まるが、どこか頭は冴えていた。今思いつく最高の嫌がらせをしてやりたかった。あの野郎怒ってるとだんだんプライドがなくなっていくな。なんとなくそれをいつ実行してやろうとタイミングを探るうちに卑しい笑いが漏れ出ていた。
「ふざけンのも大概にしろ!慎吾!」
「別にふざけてねぇぜ、俺はよォ。毅」
毅、そう呼ばれて中里は背がぞくっとした。普段中里と呼ぶクソガキが突然下の名前で呼んできた。他のメンバーからは呼ばれ慣れている。当然仲のいい連中ばかりなので全く気にしたことはなかった。だが自分に憎しみを抱く男が自分の下の名を呼んできた。心地良いという感情とは違う。おぞましさが背を撫ぜ、用意していた言葉の刃が喉元で崩れ落ちた。
「おうおう、いいツラしてンぜ、毅」
中里は困ったように口を歪ませ、わなわなと目線をあてもなくさまよわせる。慎吾の予想通りであった。嫌いな奴から名前で呼ばれることってのは割とイラつくよなァ。当然俺様は経験済みだぜ。
「た・け・し・クン」
「……バカにしやがって! 二度と名前で呼ぶンじゃねえぞ!」
舐められていると思っているのだろう。実際舐めてかかっているのは事実であるが、こうも簡単に引っかかると慎吾は笑いを止められなかった。胸糞悪ィ、帰(けぇ)るわと吐き捨て中里は32へと戻っていった。暫くして、RBエンジンがひと際けたたましく咆哮し、谷を下って行った。
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「……慎吾、テメェ毅さんにそのうち殺されっぞ」
一部始終を見ていたメンバーが慎吾に声をかけた。
「バーカ、アイツに俺が殺れるかよ」
慎吾は既に吸い終わっていた煙草に追いうちをかけるよう足で踏み殺しながら、新たな煙草を取り出して火を燈した。
【了】
2019/04 UP