最終防衛線

ちょっとした日常の切り抜き
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シングル・ベッド

「やっぱ慣れねェな」
 中里は八畳一間に無理矢理詰め込まれたようなシングル・ベッドに横たわり呟く。まるで宙に浮くような違和感を覚える。自分は六畳一間に煎餅布団を敷いて寝ているからだ。家具屋の息子から格安で譲って貰ったベッドだとか言っていた。部屋を向き、シビック、インテグラ、NSX、と雑誌の文字を追う。その文字列に一貫性を持った共通点があることは理解できるが、それの一つ一つに訊かれたら、ただ一言「VTECが付いてる」としか答えられないだろう。ベッドの主の方がもっと詳しい。自分は日産の男だ。ホンダのことはよく知らない。部屋は大方片付いているが、テーブルには宴の跡形、床にはホンダの雑誌が散らかっている。当の本人が見当たらない。虚ろな感覚に僅か聞こえてくるシャワーの音。これから仕事と言っていた気がする。元気な男だと中里は思う。昨日は金曜で、今日は土曜。中里は休みだから、いつも通り走った後に、慎吾の家で酒を呑んで「行為」に及んだ。容赦を覚えない男だと思いつつも、中で蕩けるような感覚を齎すそれを拒めなかった。中里はなぜ赦してしまうのかとも考えようとしたが、シャワーの音にかき消され、思考を失う。ただ、慎吾の必死そうな、中里を導くために形作られる形相に、中里は意識せずとも、ときめいてしまうのであった。
 ドライヤーの音が聞こえる。もっと高回転にしたら慎吾の乗ってるシビックのB16にも匹敵しそうだな、と中里は思った。肉と肉の熱さを逃さぬよう毛布をかけ直す。初夏と言えども、軽井沢に近い西毛地区は、まだまだ寒さの残る日も多い。慎吾自身が寒がりなせいか、毛布に加えまだ残してあった分厚い掛け布団を肩まで掛けた。重くあたたかい熱が中里を覆う。記憶が虚ろう。普段殺すだのぶっ飛ばすだの言うくせに、こういう時に限って好きだのなんだの素直になる。なんだかんだで可愛い奴じゃねえか。中里は疲弊しきった肉体を更に癒すため、深く落ちようとしていた。その時だった。額にやわらかいものが突き当たった。
「行ってくンぜ、毅」
 目は自然と既に支度を済ませた慎吾を追っていた。新婚じゃああるめぇしよ、と中里は玄関に消えゆく慎吾を目で見送り、違和感の宙の中で眠りに落ちた。

【了】

2020/05 UP
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