最終防衛線

ちょっとした日常の切り抜き
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凛として咲く花の如く

 中里毅、十八の夜。シルビアから若葉マークが外れた頃だったろうか。ようやく肺に馴染み始めてきた煙草の火を燈そうとした頃、同じく若葉マークを張り付けていた覚束ないガンメタの32GT-Rが上って来るのを見かけた。
「うわあ、Rで初心者かよ。大した奴だな」
 中之嶽の駐車場で初めて見たBNR32 GT-R。若葉マークを張り付けているくせに、リアウイングの大きさが尋常ではない。いったいどんな金持ちが乗っているんだろうと中里は少しばかりその主が出てくるところを心躍らせつつ見つめていた。
エンジンをアイドリングさせながら出てきたドライバーは、男か女か一瞬判別がつかなかった。ドライバーがこちらに向かってくる。目鼻立ちの整った長髪の男だった。長髪の男など免許取得と同時に入ったチームにいくらでもいるため、珍しいものではなかったが、得も言われぬ圧を感じた。Rがそうさせているのか、本人がそうさせているのか中里にはわからない。
「なあ」
 圧のある声で男は中里に話しかける。その声は梅雨のような陰湿さが覗いていたが、中里がそれに気付くことはなかった。
「すげえな、GT-Rか、この辺走ってンか」
 梅雨を遮る晴れ間のような声で中里は言う。
「いや、妙義は初めてだ。G大の先輩とかよく赤城で走ってるって言うから、俺もやってみようかな、なんて……」
「初めて走る奴がGT-Rかよ! お前バカも休み休み言えよ!?
……いや、G大行ってンなら、そんくらいの金あるか……」
「出世払いってことでツケて貰ってる、実家、病院なんだよ。神奈川の」
「はあ……都会からこちらまでご苦労さん。俺には遠い世界だな……大学だってどんなとこか知らねえもん」
「作業着ってことは工員……? 中卒なのか」
 長髪の男は、作業着に着られている目の前の男が幼く見えたらしく、つい口にしていた。
「T工だよ! 今年から社会人なのはそうだけど! ここからチャリンコで18号まっすぐ行って3年間通ってたんだぞ!」
「ふっ……悪いな。ってことはタメになるのか」
「マジか……。同い年でGT-Rぶん回す奴いるもんだな……」
 中里の呆け面に若葉マークの長髪男は柔らかな笑みを溢す。彼もまた若く、清い男であった。
 別に家が貧しいから工員をしているわけではない。早く自立したかった。大人になりたかった。そしてクルマが欲しかったのだ。今は実家に留まる身ではあるが、シルビアの返済に加えて家に金を入れいてる。中里は大学に入れない頭ではなかったが、前提として大学に入ることを頭に入れてなかったのであった。
「なあ」
「ん?」
「煙草、似合わねえな」 「好きで吸ってンだからいいだろ」
「未成年だし、やばいだろ」
「会社の同期も吸ってるし」
「同期が吸ってるからっていいってもんじゃねえだろ……ったく、俺もこんなド田舎に来ちまうとは思わなんだ」
 長髪の男はそう言いつつも咎めるような言い回しではなく、笑いながら中里に言った。
「おっとそろそろ戻らねえと怒られるな……じゃあな」
 RB26DETTを噴かし、丸目の間に若葉マークを張り付けてドライバーは去っていった。中里は茫然とそこに立ち尽くしていた。
「大学生かあ……このチーム中退とか高卒とかばっかだから珍しいヤツ見たなあ……」
 中里は名も聞かずに立ち去った男が後に帰郷し、死神と呼ばれていることも知らず、丸目四燈に張り付けた若葉マークもその数年後に白いRのリアバッジに上書きされ、庄司慎吾の登場で目まぐるしく彼にまつわる記憶ばかりが増えていったために、たった一度言葉を交わした相手が死神・北条凛であることも記憶の彼方に葬られたのであった。


【了】

2020/6/22 UP
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